人間は考える葦である

この有名なフレーズは
パスカルの『パンセ』断章347にある

考える葦(ROSEAU PENSANT)

人間の比喩になぜ【葦】なのか
日本人なら釈然としナイのがフツーだろう

L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature; mais c’est un roseau pensant.
(人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし、それは考える葦である。)

なんて言われても
日本人の常識では【葦】は最も弱い植物ではナイ

【葦】と言われて日本人が思い起こすのは
軒先にぶら下がってたり、立てかけてある簾だろうて
その繊維質は弱いドコロか
強靭にさえ感じられるはずだw

それなのにパスカルの言を鵜呑みにして
賛同しちゃってる人もたまにいるし
中には「パスカルの比喩が甘い」なんて
バックグラウンドを推し量るコトなく
頭ごなしに非難してる輩までいて
YAHOO!知恵袋なんかで答えられてる殆どが
見当違いで失笑モノだったりするが
科学的に、理性的に、要するにまともに考えれば
【葦】より弱い生物なんて、他にもいくらでもいるし
そんなのパスカルも承知してるってヽ(゚∀。)ノ

なぜパスカルはあえて【葦】としたのか?

先に答えを言ってしまえば
キリスト教圏では単に
聖書に倣って人間を【葦】に例えてるので
パスカルもその慣例に従っただけだ

つまり、【葦】を人間に擬えるのは
ユダヤ(※)民族起源なので
換言すれば、【葦】を脆弱たらしめてるのは
旧約聖書成立以前のユダヤ人の感性なのであるるる~
現代日本人に合点が行くワケナイのだ。(´д`;)ギャボ
ヘブライもイスラエルも同義(使用する地域や時代で呼称が変わる)

但し、信者かどうかは別にしても
聖書の記述の真意を理解しようと努めて読んでれば
そういうモノなのだ、と刷り込まれてしまう

自分も信者ではナイが聖書は愛読書なので
旧約聖書の預言で人間を
【傷ついた葦】と表現してたり
イエスが群衆を愚弄するのに
【風に揺れる葦】と形容してるのは
合点は行かずとも
そういうモノと納得はしてたし
キリスト教圏の民であれば
もうそこに違和感を覚える余地もナイのだろう。(゚д゚lll)ギャボ

パスカルと同じく仏語圏のモーパッサンは
『メゾン テリエ』でお祝いに集まってきた人々を

そよ風にゆらぐ葦

としてて、原典のフランス語では次のようにあった

comme des roseaux sous la brise

comme:~のような
brise:弱い風(通常の風は vent で brise はそれより弱い風)

余談だが
風があえてそよ風なのは
これはモーパッサンにしてみれば(※)
vent では喧噪の只中の群衆のようだから
お祝いにかけつけた人々の心情に相応しくなかったので
brise としたのではなかろうか?
訳は杉捷夫

遥かに狂乱の群を離れて〈1〉 (昭和初期世界名作翻訳全集)遥かに狂乱の群を離れて〈2〉 (昭和初期世界名作翻訳全集)

喧噪の只中の群衆、と言えば
トマス・ハーディの『Far From the Madding Crowd』では
混雑した中で押し合いへし合いする群衆を

風に揺り動かされる芦(あし)のやうに揺られながら(※)

と表現してて、原典の英語がどうだかは不明だが
慣用句的な使われ方なのは想像に難くナイ
昭和初期世界名作翻訳全集なので旧かな遣いなのだ(訳者は英文学者宮島新三郎)
タイトルも『遥か群衆を離れて』が一般的だが、これは『遥かに狂乱の群を離れて』

ん(゚ ゚;)?!

改めて気づいたが、このタイトルの
『Far From the Madding Crowd』って
ユダヤ人に言わせれば
「荒野の葦原より遠のいて」なのか?!

☆・・・☆・・・☆

ラ・フォンテーヌの寓話の中に
『樫と蘆(あし)』てのがあって
頑丈な樫の木が自信満々で
何があってもびくともしナイ、としてて
鳥が留まったり風が吹いたりしただけで
たわんでしまう葦を
冒頭では憐れんでるのだが
最期には暴風によって
葦はいつものようにたわんだだけだったが
樫は根こそぎ倒れてしまった
と、そんな話だった

☆・・・☆・・・☆

それにしても葦、芦、蘆、葭・・・
葦の字は色々あるのだな

ダフニスとクロエ

「愛する」とは「愛してもらおうとする企て」である

サルトルの哲学書『存在と無』にある名言だが
つまりそんな【企て】に始終心を奪われてる期間が
恋愛中ってワケだ

しかも【企て】の結果如何によって
不安もしくは安堵とか、至福もしくは絶望とか
両極端に心が揺れ動くのだが
それを常に確認しなければ気が済まなくなってて
精神状態は非常に不安定になるるる~

【企て】通りに進捗しなければ
落胆や憤怒は狂気の沙汰で
その狂気を相手にぶつけるコトから始まる争いは
傍から見れば微笑ましいような痴話げんかだとしても
当人同士にとっては当に死闘。(゚д゚lll)ギャボ

恋煩い、てのはよく言ったもので
恋する気持ちは確かにもれなく病んでるのだ

それはお互いの【企て】が噛み合ってたとしても
つまり両想いだったとしても同じだ

恋人同士と認知し合う幸せに酔い痴れる様は
まるで泥酔者の如きで
先々の不幸も身に迫る危険も
もはや察知できなくなり
死をも怖気付くには値しなくなったりさえ・・・。(´д`;)ギャボ

家族は運命共同体なので
より良い社会生活を営むための様式を
助け合って構築する(のが理想的だ)
その家族の基盤となる最小単位が夫婦だが
夫婦以外の他の構成員は
繁殖によって賄われる(のが理想的だ)

この社会通念と生物学的な事由は正しいが
無謀な恋人たちには
正誤の判断なぞ出来兼ねるワケで
何をか言わんや糞食らえだw

恋人は宿命の半身(はんしん)なので
社会的でも生物学的でもなく
哲学的な存在だ!

お互いの存在意義をお互いの中に認めてて
むしろ自己の存在意義は
相手によってこそ成り立ってたりするのだ!!

そうなると恋愛の終焉は
【自己の存在意義の喪失】で
ましてや欠点こそ愛しく思えるくらい
愛し合ってたりすれば
そこで補われた自らの至らナイ部分が
相手を失った瞬間に一気に顕になってしまい
自分自身に向かって
矢のように突き刺さってくるだろう

この矢傷が招く症状が自己嫌悪で
恋人を失うと同時に
自己の存在意義を見失った際に
無駄に自己嫌悪に陥るのは
そのためだと思われ

片恋の相手に失恋して
自棄になるのも
相手が見出してくれるだろう
と期待してた自己の存在意義を
認めてもらえなかったコトで
茫然自失するからだな

☆・・・☆・・・☆

『ダフニスとクロエ』は
シャガールの連作や
ラヴェルのバレエ音楽などで
牧歌的な恋愛譚って大まかなあらすじだけ
なんとなく知ってる気になってた

ちゃんと読んでみたのは
5年前(2013年)で
電気書籍になってたからだ

ウブな山羊飼いの少年ダフニスと
無垢な羊飼いの少女クロエが
お互いに自身の感情が恋だと気付かずに
てか、恋とゆーモノを知らナイため
想いが募って遂には病気になってしまうのだ(-_-;)

しかしキスをするコトで苦しみが癒されるのを知り
最終的には結ばれる喜びに満たされるのだが
いや~、泣けた・・・(;つД`)

現代日本ではSEXって不道徳なモノのように扱われ過ぎてるし
自分もすっかりその風潮に毒されてた

不特定多数の相手とのSEXと唯一無二の相手とのSEXを
同じように蔑視してる自分に気付いて
泣きながら恥じ入った。・゚・(ノД`)・゚・。

まあでもそれだけの純愛物語でもまたナイのだw
年増女の恋の手ほどき(筆おろしってヤツね)あり、男色ありで
強気で人間臭いギリシアの神々も健在で
三島由紀夫が感化されて『潮騒』を書いたのも納得だし
ゲーテが賞賛するのも尤もだわ

ちなみに作者はロンゴスなる人物で
2~3世紀頃のギリシア人(ってコト以外はわかっておらず)

☆・・・☆・・・☆

果たしてサルトルが言うように
「愛する」とは「愛してもらおうとする企て」だろうか?

ダフニスとクロエの場合は明らかに違う気がするな
「愛する」とは、もとい、「愛し合う」とは
「恋しい苦しい気持ちを癒し合うコト」だろうか?

セネカの猥談

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』は
知ったかぶりの主人とその従者ジャックの
珍道中の物語ではあるが
話が脱線しまくって
もう珍道中ドコロではなくなってるw

しかし、脱線の方向性が
ドストライクに興味の範疇だったりして
もれなくいちいち面白いのは
著者のディドロと自分が
思想も趣向も似通ってるんだろう

古代ローマにおいて
恐らく最も悪名高い皇帝ネロと
その師傅(しふ)だったセネカと
ネロの指南役に収まったペトロニウスが
三度の飯よりも好きな自分だが
ディドロもその辺りが大好物だったのは
『クラウディウスとそのネロの治世、
およびセネカの生き方と著作に関する試論
―この哲学者の読書案内』
なんてのを書いてたくらいなので明らかだ!
残念ながら邦訳がナイので未読だがp(-_-+)q

『運命論者ジャックとその主人』では
ジャックの主人の台詞に
以下のようなツッコミがあり・・・

 身持ちがよくって、哲学を鼻にかけている良識の士が、どうしてこんな猥褻な話をしておもしろがることができるのですか?
――まず第一に、読者諸君、これはコント(作り話)ではなくてイストワール(実話)なのだ。
 だからぼくはジャックの愚かなおこないを書いたからって、スエトニウスがわれわれにチベリウス帝の放埓三昧を伝える時以上にわるいことをしているとは思わない。
たぶんそれより罪は軽いと思っている。なぜ諸君はスエトニウスを読み、何ら彼を非難しない。
なぜ諸君はカトゥルスやマルチアリスやホラチウスやペトロニウスやラ・フォンティーヌその他に眉をしかめないのか?
どうして諸君はストア派のセネカに、凸面鏡に映ったあなたの奴隷の淫猥な姿がわれわれには必要なんですか、と言わないのか?
どうして諸君は故人にだけ寛大な態度を示すのか?

チベリウス帝=ティベリウス帝は
訳注(※)には「=ネロ帝」となってたが
スエトニウスの『ローマ皇帝伝』で
ティベリウス帝と言えば
第2代皇帝ティベリウス・ユリウス・カエサルで
第3巻に出てくるし
別途、第5代皇帝ネロは
第6巻に出てくる
自分が読んでる『運命論者ジャックとその主人』は古い筑摩世界文学大系収録のモノで訳者は小場瀬卓三

一般的にはネロ帝と言えば
第5代皇帝ネロで
クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
もしくは
クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス
なのでティベリウス帝とネロ帝は別人だが
同じ本にあったので
ジャックの主人は勘違いをしてるんだろうが
訳者も勘違いをしてるんだろうか?

そもそも『ローマ皇帝伝』は
カエサルと以降の11人の皇帝について
歴史的な事象よりは
個人的な趣味が描かれてて
だから伝記ってよりは
全体的にゴシップ色が強いのは否めず

それにしたってティベリウス帝を
やり玉に上げずともよかろうにとは思うがね

だがしかしここで肝心なのは
最後の方の「ストア派のセネカ」と
「凸面鏡に映ったあなた(セネカ)の奴隷の淫猥な姿」で
これはセネカの著書のどこかに
自身の奴隷の凸面鏡に映った淫猥な姿について
描写があるかもってコトだ!

なんせティベリウス帝のように
ガセネタも多いので
セネカの猥談なんてのは
大いに勘違いの可能性があるるる~

しかしこれが予想に反して
一応、記述されてるのが確認できたヽ(゚∀。)ノ

【16 ホスティウス・クアドラの忌まわしい物語】で
それは『セネカの自然研究(全)―自然現象と道徳生活―』の
「第一巻 大気中の火(光)について」にあった

まずホスティウス・クアドラが誰かと言えば
アウグストゥス帝の頃(b.c.27~a.d.14)の男で
後の芝居にエロキャラとして登場する程
その猥褻ぶりが知られてたそうだが
この男の奴隷たち(性の別など拘らず)が
凸面鏡だらけの部屋で
のべつ幕なしに行為を致してたのだ(゚*゚;)

セネカ自身が奴隷にやらせてた
とゆー疑いは晴れたw

そしてセネカは紀元元年前後に生まれてるが
どうやらホスティウス当人の痴態を
直接は見てなくて
ホスティウスの如きエロキャラが
登場する芝居を観てたぽい

セネカの詳述した淫猥な事態の描写は
実際に参加してなかったとしたら
まるでごく近しい友人でもあったかのように
思えてしまう程なのだが
と言うコトはセネカはこの芝居を
どんだけじっくり鑑賞してたんだかね?!

ストイックなストア派のイメージが・・・。(´д`;)ギャボ

いや、既にそれを
どうやって芝居にしてたのかがもうね
謎過ぎるるる~・・・バタリ ゙〓■●゙

いかに妄想力自慢の自分でも
想像図が追い付けず。(゚д゚lll)ギャボ

古代ローマにおいても
人類始まって以来の放縦さ極まった時世で
それこそ『サテュリコン』の世界観をもってすれば
芝居としてフツーに上演されてるのも
「あり」だったのだろうか?!

想像力を欠きつつ読みながら
自分が真面目に疑問を抱いたのは
当時の鏡に映る鏡像の精度と
当時の照明の明るさだ・・・( *゚Д゚)つ[酒]

何がどういうアングルで映ってるか
はっきり認識できるレベルではなかった気がするのだが
それでもかぶりつきになるくらい
興奮が出来たのだろうか?

いかん、エロについては
生真面目に考えるだに論点がずれてくw

トリマルキオの饗宴

ペトロニウスの小説『サテュリコン』で
恐らく主人公よりも有名なのが
トリマルキオ(Trimalchio)だろう

Trimalchio はギリシア語で
「3度祝福された人」の意

イタリア人監督のフェリーニの映画では
トリマルキオでなく
トリマルチョーネとなってて
他の登場人物も原作と映画で読み方が違うので
下表にまとめておく

登場人物『サテュリコン』『サテリコン』意味
Trimalchioトリマルキオントリマルチョーネ3度祝福された人
Gitonギトンジトーネ隣人(ゲイトン)
Encolpiusエンコルピオスエンコルピオ抱かれる人
Ascyltosアスキュルトスアシルト決してへこたれない人
Eumolpusエウモルポスエウモルポ甘く歌う人

修辞学校の教師の名がアガメムノンなのは

なぜか、彼の名はトロイア戦争におけるギリシア遠征軍の総帥の名にちなむ

とあるが、助教師の名がメネラオスなので
安易にセットでこの有名な悪漢兄弟の名を使ったんだろう

そしてまとめておいてなんだが
臨機応変にどちらも使用する・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

小説の話題ならギトンでも
映画の話題ならジトーネだってワケだが
例外的にトリマルキオは
一般的にもトリマルキオで通ってて
例えば『トリマルキオの饗宴』と冠する本があり
この記事ではその本についても触れてるので
トリマルキオで統一しとくw

その『トリマルキオの饗宴―逸楽と飽食のローマ文化』が
以前は中公新書で出てたのが
『逸楽と飽食の古代ローマ―「トリマルキオの饗宴」を読む』と
中身はそのままでタイトルがちょっと変わって
2012年に講談社学術文庫から再版され
今では電子書籍化した

紙の書籍でも電子書籍でも
この本を手にして最初に捲るページてのが決まってて
それはつまり最も気に入ってる件なのだ

 そのとき、ブドウの葉とキヅタの髪飾りをつけた美少年がブドウの籠を手にして登場し、酒神バッコスのさまざまな仕草を真似ながら、トリマルキオの詩を甲高い声でうたった。

バッカスに扮した美少年が歌い踊るのを思い浮かべて呑むワインは
格別に美味い( *゚Д゚)つ[葡萄酒]

但し、些細なコトだが
岩波文庫の国原吉之助訳のように
ブドウは「葡萄」、キヅタは「常春藤」、と
漢字の方が香り高い気がするのと
「さまざまな仕草」と省略してるのは
後からちゃんと解説があるにせよ、いただけナイ
文中での鮮明な描写があった方が
より陶酔できるのに
ほんのちょっぴり残念に思う

『サテュリコン』では以下のように訳されてる

 こんな会話をかわしていたとき、一人の美少年が葡萄の葉と常春藤で頭髪を飾り、ときに陶酔の酒神バッコスを、ときに苦悩の解放者バッコスを、ときに霊感の鼓吹者バッコスをよそおい、葡萄の実の入った小籠を持ってまわりながら、彼の主人の詩を甲高い声でうたった。

トリマルキオがこの美少年の奴隷に対して
「ディオニュソスよ、自由(リーベル)になれ」
と、声をかけると
美少年奴隷は皿の上のイノシシの頭に乗せられた
解放奴隷の帽子を手にとって
自身の頭に乗せ
皆がそれを祝福してキスをするのだ・・・ホゥ(*-∀-)

これはトリマルキオが美少年を
奴隷の身分から自由にしてやった
と、自分には思えたのだが
注釈でもそこが判然としなかった

ところが『トリマルキオの饗宴』は薀蓄本なので
当然、この場面に対しての詳しい解説があり

 少年はトリマルキオがつくった詩を殊勝にも丸暗記しており、少年らしい高く通る声で朗唱した。詩の最大の理解者は作者であるという法則にたがわず、トリマルキオは深い理解と感銘から心を揺らし、その揺れが言葉となって現われた。

そして自分が悟った通りの状況が述べられてるので
胸がすくのだ!

しかし映画『サテリコン』ではこの場面はナイ。(´д`;)ギャボ

てか、原作に忠実な作りではナイので
既に饗宴に参加してるメンバー(※)からして
大いに違ってたりもするしね
『サテュリコン』では修辞学校の教師ら、エンコルピオス、アスキュルトス、ギトンだが、『サテリコン』ではエンコルピオとエウモルポ

それにしても古代ローマにおいては
奴隷、の単語から発せられるイメージに
陰惨さはまるでナイ!!

とりわけトリマルキオの饗宴においては
主人自身が解放奴隷だってのもあるのかもしれナイが

 少年奴隷たちは面倒な仕事中でもつねに歌をうたっていた。

なんて、陰惨どころか、底抜けに明るいし
アメリカにおける黒人奴隷なんかとは全く違ってて
主人の信頼を得られれば
ちゃんと人間性も尊重されるし
先述のバッカスに扮した少年のように
饗宴での才気の対価として
快く自由を与えるコトさえあるのだ

『サテュリコン』の著者であるペトロニウスは
実際の家族構成がどうだったのかは謎だが
シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』の中では
美しい奴隷を愛人にしてたりもするし
そもそもローマ帝国の皇帝であるネロも
解放奴隷であるアクテに恋をして
由緒正しい王女だった正妻とは離婚して
アクテを愛人ではなく
正妻に迎えようとしてたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

映画『クォ・ヴァディス』では
ペトロニウスと美女奴隷の恋愛が
非常にロマンティックに描かれてて
自分もこの時代に生まれるなら
美人の奴隷に生まれたいと思ったりw

ネロとアクテの恋物語は
『NERO ザ・ダーク・エンペラー』で堪能できるるる~

サテュロスと『サテュリコン』

ニーチェの『悲劇の誕生』では
2つの比喩的な語が繰り返される

アポロン(的)と
ディオニュソス(的)だ

これらが古代ギリシアの神であり
アポロンは太陽神で
予言、医術、音楽を司ってて
ディオニュソスは酒の神

そのくらいの認識は
およそ無教養な現代日本人でも持ってるだろう

とはいえ

 芸術は、<アポロン的なもの>と<ディオニュソス的なもの>という、ふたつの要素のせめぎあいによって展開してゆく。それはオスとメスによる生殖のようなものだ。生物の場合、ふたつの異質なものが絶えずせめぎあい、両者の和合はしかるべきときに定期的にしか訪れないわけだが、芸術にもそれと似たところがある。そうした芸術の特質を、ただ論理的に理解するだけでなく、ずばり直観的にも把握できるようになれば、美学はおおきく前進することになるだろう。

などと、のっけから言われても
太陽神と(葡萄)酒の神が
どうしてオスとメスほどに対極的なのかは
はっきり言って合点がいかんてw

ギリシア神話の神々の中では
ヘルメスが1番好きだが
次いでアポロンとディオニュソスも
甲乙付け難くお気に入り

そんな自分でさえも
ニーチェのこの位置付けには
疑問を感じてしまう

アポロンは美麗な青年の姿の神で
竪琴を爪弾くのだから
人間だったなら絶対にモテただろうが
これがなぜか非モテなのだ。(゚д゚lll)ギャボ

例えば
予言の術を授けるから恋人になるよう
トロイの王女カッサンドラに言い寄るのもおかしいが
それで振られた腹いせに
予言を信じる者がいナイようにしたり
美女コロニスを手篭めにして
恋人気取りでいたら
他の男と結婚してしまったからって
コロニスを殺そうとしたり
意外と人間臭いってか
姑息な部分が垣間見えるので
ニーチェが示唆するような高潔なイメージは
どうにも持てナイのだが。(´д`;)ギャボ

だいたいアポロンは相手の性別問わず
悲恋のエピソードばかりなのだが
腐女子にとってはアポロンの悲恋こそが
ギリシア神話の美味しい部分だ

ヒュアキントスやキュパリッソスなど
名だたる美少年とアポロンとの
在りし日のやりとりには妄想力を惜しまナイし
美少年の死に際に限定すれば
悲壮感の中にも優美なアポロンてのはわかるが
主知的、理性的とかは違う気がするし
それに比してディオニュソスを
激情的とするのはどうかと思われ

ディオニュソスの配下の
サテュロスのような牧羊神ら(※)は
放埓な獣らしい下半身をしてたりするし
パーンの笛の音でマイナデスは踊るだろうが
ディオニュソス自身は酩酊もせず
超然としてるカンジだが?
ローマのバッカスの従者であるファウヌス然り

サテュロスの名に由来する
『サテュリコン』なる奇異な小説を知ったのは
偕成社の少女世界文学全集の『クォ・バディス』で
そこには『サチリコン』とあり
登場人物のペトロニウスが書いた本なので
実在するとは夢にも思ってなかった

ところが雑誌ALLANの影響で
マルキ・ド・サドを澁澤龍彦訳で読み漁り
澁澤訳のユイスマンスの『さかしま』に巡り会い
ペトロニウスも『サテュリコン』も実在してたと知った!

それはまるでシュリーマンが
トロイの遺跡を探し当てたような興奮を思えたが
なんせネットで検索などできなかった時代のコトで
更に当時、女子高生だった身としては
大っぴらに買い求めづらかったのもあって
闇雲に古本屋を探し回るしかなかった

また映画『サテリコン』の存在を知ったのも
ALLANに載ってたからだが
そこで紹介されてる美少年ジトーネに一目惚れして
この映画を冥土の土産にどうしても観たいp(-_-+)q
そう思いながら20年余りが過ぎ
結局、DVDが発売されたのを買って
観たのは2003年だった

そうしてずっと片隅に追いやりながらも
人生の中で『サテュリコン』を切望してたので
サテュロスの名がいつも脳裏を掠めてて
山羊の角と下半身を持つ異形の姿を
ワリと身近に感じてて
現代日本に魔女狩りが無くて良かったw

最後に最愛のヘルメスに関して
神に対して不謹慎かもしれなんだが
ファッションを含めたルックスがたまらなく好きで
性格的にやんちゃで愛嬌たっぷりなのも
ときめかずにはいられん・・・ホゥ(*-∀-)

アポロンは最も美しい青年の容貌を持つとされ
そりゃあ文句のつけドコロは皆無だが
ヘルメスの方が愛らしいと思えるのは単に好みで
特にボッティチェリの描いた
『プリマヴェーラ(春)』でのヘルメスときたら
甘かやなヘアスタイルといい
端正な顔立ちといい
肉付きのイマイチ感といい
個性的な帽子とサンダル(ブーツ?)といい
大好きなテイストで仕上がっててるるる~

ペトロニウスとセネカ

悪評の尽きナイローマ皇帝ネロだが
自分はどうも人としての興味が尽きナイw

ネロに好感が持てるのは
若い皇帝らしい傍若無人さを発揮してるトコロだ

そんな若気の至りで暴走するネロの
人間関係がまた興味深い

とりわけ
皇帝になる以前より
師傅(しふ)だったセネカと
皇帝になってから
側近となった【趣味の審判者】ペトロニウスが
ネロ以上に奇人変人で魅力的なのだ!

というのは彼らの著作を読めばわかるるる~

セネカはストア派の哲学書だけでなく
人情味のある往復書簡もやりとりしてて
ギリシア悲劇風の戯曲を書いてたりもするが
自然現象についての考察をまとめてるかと思えば
その中に下世話な(てか、卑猥な)見聞録さえあり
どれも非常に面白い内容に仕上がってる

ペトロニウスは唯一残存してるのが
長編小説『SATYRICON(サテュリコン)』で
しかもごく一部のみなのだが
ラテン文学における悪徳の金字塔とでも言おうかw

酒池肉林、享楽、放縦、残忍・・・etc.etc.と
ローマの退廃の限りを尽くした描写が
絵にも描けナイおぞましさで
フェリーニによって映画化されてる

さすがの自分も冷や汗が出るくらい
変質者のオンパレードで
まともな人間が観たら
夢見が悪くなるコト請け合いだ

シェンキェヴィチの歴史小説『クオ・ワディス』には
ペトロニウスが『サテュリコン』を
甥のウィニキウスに買い与える場面があり
作者が誰なのかはネロにはバレてナイ設定なのも面白い

悪徳の宝庫のような「トリマルキオの饗宴」の
主催者トリマルキオのモデルが
ネロなのは火を見るより明らか(※)だが
このモデルの起用はまともな人間ならば憤慨するだろうし
当然ながら皇帝である者には侮辱ともとれるだろう
ネロもペトロニウスも何もコメントを(残)してナイので史実としては謎ではある

ペトロニウスがネロを槍玉に挙げてて
それを読んで皆で嘲笑してるのは
ペトロニウス曰く
ネロにはバレてナイとしてるのだが
実はネロ自身は気が付いてて
内心では不満に思いつつも
あえて黙ってたかもだ

酷過ぎると思う部分に
ネロはぶるぶる震えながらも
洒落だ=面白がれ、と
ペトロニウスがすまして示唆すれば
恰好つけて無理して洒落のめしてたりしてw

そんなネロの様子を
ペトロニウスは心底面白がってたりしてwww

ネロ、カワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイよ、ネロ~!!

皇帝としてどうかではなく
アーティスティックかつエキセントリックな若者として見た時
どうしても嫌いにはなれナイ人物像なのだが!

粋人(すいじん)だったペトロニウスからしても
頭の硬い年寄りの政治家や
血気盛んで無教養な軍人の中で
下衆な噂話か
無味乾燥とした政策論か
血生臭いだけの武勲のような
そんな聞きたくもナイ話ばかり聞かされて
瑞々しい感性をすっかり干からびさせてたネロが
孤独に耐えるいたいけな少年に見えたに違いナイと思うのだ

そしてついかまいたくなったって出来心だったのだろうが
ペトロニウスのめくるめく快楽への誘いは
若く多感なネロにとって
どれほど魅惑的に感じられたコトか

それまで皇帝としてのネロが発揮できずにいたモノを
ペトロニウスがけしかけて解放してしまったのだ
うむ、それだけのコトだと思われ

国費を散財してる時点で既に不道徳の極みゆえ
その金で何をして遊ぼうが
いずれ真っ当とは言及しようもナイが
自著『サテュリコン』の如き世界観を反映してたなら
それはもう筆舌に尽くし難い悪徳に違いなく
その現場はきっとフツーの人間なら卒倒しかねナイし
生真面目なストア哲学者なら憤死しそうだ!

セネカは憤死はしなかったが
一緒に愉しめなかったぽい
剣闘士の試合を非難したりしてるしね

食べるために吐き、吐くために食べているのだ

この有名な嘆きもセネカの言だが
ローマの退廃はストア派哲学者には
耐え難い地獄絵図だったのだろう

弓削達著の『ローマはなぜ滅んだか』によれば
ローマ帝国に長者番付があれば
セネカは常連として名を連ねてたに違いなく
具体的にはその財産が3億セステルティウスほどだったそうだ

概算で40万セステルティウスが1億円ほどに当たるから
どれほど金持ちだったのだ・・・バタリ゙〓■●゙

そんなセネカは財産に対してこんな言い訳をしてる

財産は、賢者にあっては奴隷の地位にあるが、愚者にあっては支配者の地位にある

ストア派なら財産を持ってても
悪徳には染まらナイって?!
まあそういう言い訳がましいトコロも含めて
セネカも好きだがね

その点、ペトロニウス自身は
案外シニカルに愉しんでたのでは?
エピキュリアン(快楽主義者)でなく
シニック(犬儒派)!

しかしネロがペトロニウスに感化されるのは
至極当然の成り行きだと
ほくそえむ自分も
セネカからしたら不道徳な人間だろうか?

映画『QUO VADIS(1951)』

児童版『クォ・バディス』から引用すれば
主役のビニキウス(映画ではヴィニシウス)は

たくましいからだとととのった目鼻だちとをそなえたビニキウスは、いかにもローマの青年貴族らしく、きびきびしていた

とあり、凛々しいラテン系美青年を想起する

原作では未婚なので20歳そこそこの設定だろうが
ヴィニシウス役のロバート・テイラーは1911年生まれで
映画出演時(1951年)には40歳。(゚д゚lll)ギャボ

【趣味の審判者】たる叔父のペトロニウスが
彫刻家がヘラクレスのモデルに使いたがると形容してて
確かにマッチョなハンサムではあるが
いかんせん、瑞々しさに欠く

ヴィニシウスの役ドコロは
惚れた女に洗脳されて
改心してキリスト教徒になって
持ち前の正義感を発揮して
仲間の救出に尽力するようになるも
結果的には叔父ペトロニウスを裏切って
皇帝ネロに反目する立場になるので
簡潔に表現すれば青二才だw

しかしローバート・テイラーでは
とてもそうは見えん。(´д`;)ギャボ

女のために信念を曲げるなんて
以ての外ってカンジに顔が締まってて
とても胡散臭い新興宗教にかぶれてる女に
のぼせてしまうようには見えんて

それに加えて
往年のスターだったのが鼻についたかもだ

それも年を追う毎に人気が低迷してきたので
起死回生を懸けて身体を鍛え上げて
アクションスターへ転向を計った第1作目p(-_-+)q
そんな意気込みが見て取れてしまう

それでもまだそこはかとなく
甘さを兼ね備えてて
どんなに荒々しく傍若無人に振舞っても
強面にはならぬ甘やかさがあるのが
この往年のスターの最大の魅力であろう
そこに頑なな聖少女さえも
つい心を許してしまうのはわかるるる~

こうしてヴィニシウスの年齢設定があがったせいで
相手役の年齢設定もあがったのだろう

児童版『クォ・バディス』には
アウルス将軍の息子とボール遊びをして
頬を紅潮させてるリギア(リジア)の挿絵があったので
せいぜい16~17歳と推定してたが
演じてたデボラ・カーは当時なんと30歳ヽ(゚∀。)ノ

尤もその神々しいまでの美貌で年齢を超越してたし
リジアを本トに10代の少女が演じてたら
四十路のヴィニシウスとのロマンスに
無理があるってモノだ

また児童版『クォ・バディス』によるリジアの容貌は

黒いふさふさした髪を持ち(中略)夢の楽園の天使のよう

とあるのから自分は勝手に
『緑園の天使』でのエリザベス・テーラーを当て嵌めてて
ブロンドのゴージャス美人のリジアには
正直、面食らったのだった

しかしその想起は自分だけではなかったようで
リジアに扮してカメラテストを受けてるリズの写真が
IMDbにアップされてた!

でもこの頃はもう色っぽ過ぎて
リジアにはミス・キャストだ(-_-;)

デボラ・カーはこの後
『ジュリアス・シーザー』にも出てて
ブルートゥスの妻を演じてるが
圧倒的な美しさを誇ってる

『黒水仙』での尼僧姿も
『キング・ソロモン』での探検家スタイル(?)でも
その美麗さには遜色がなく
むしろ装飾を取り払ってしまってこそ
ますます光り輝いて見える本物の美女だが
それが『クォ・ヴァディス』では
不遇な身上の元王女で
敬虔なキリスト教の信者なので
泥沼に咲く蓮のような清らかさが満ちてる

また、バレエをやってた人特有の
無駄な脂肪がナイ肢体を
三十路過ぎても保ってて
特に二の腕は賞賛に値する・・・ホゥ(*-∀-)

主役にロバート・テイラー
相手役にデボラ・カー
このキャスティングだけで
ハリウッド映画としては既に成功してるが
歴史大作としてはやはり
主役の美男美女だけでは納得できん!

ネロ、ペトロニウス、セネカ、ペテロなど
実在した人物が大多数なので
そのキャスティングの妙にこそ真価が凝縮されてる

自分はキャラ的にペトロニウスが大のお気に入りだが
レオ・ゲンのペトロニウスは
奴隷のユーニス役の美女とセットで好かった

ネロはローマ皇帝の中では1番好きなのだが
ピーター・ユスティノフのネロもなかなか可愛くて
ポッパエアの毒女ブリと好対照だった

惜しむらくは
もう少しセネカに活躍して欲しかったが
まあ史実的にも
ローマの大火の前に隠居してたからしかたナイ

但し、ローマの大火でネロが火付けを指図したなんて
歴史的事実に反してるんだがね・・・
だいたいネロに対する誹謗・中傷は
キリスト教徒の陰謀でしかナイ

そんなコトを言ってる自分も
初めて読んだ頃には
まだ世界観が確立してなくて
憐憫の情だけは持ち得てたので
迫害されるキリスト教徒に同情を禁じえず
逆にネロが悪の権化だと
うっかり真に受けそうになってたのだった

Domine, Quo vadis?

1951年のハリウッド映画は
英語読みの『クォ・ヴァディス』で
1954年の岩波文庫も
同じく『クォ・ヴァディス』だった

これが1995年に岩波文庫から出た新訳では
ラテン語に忠実な読みになって
『クオ・ワディス』とされてしまった。(゚д゚lll)ギャボ

通常はギリシア語名やラテン語名の
英語読みには反対派なのだが
長年に渡って慣れ親しんでしまうと
正しい方に違和感がある。(´д`;)ギャボ

かつて自分が愛読した児童書は
1964年に出た偕成社少女世界文学全集だが
Vが「ヴ」でなくて
「バビブベボ」に置き換えられてて
『クォ・バディス』だったし
著者名もシェンキェビチになってたし
映画ではヴィニシウスとリジアだったのも
ビニキウスとリギアだった

しかし新訳はラテン語読みに正しく
『クオ・ワディス』になってるのと同様
ヴィニシウスもウィニシウスとなり
何が不便かってググる際に
何通りもググる必要が生じるし
そうしてググる人のコトを考えると
こうして記事にする時にも
表記について延々と説明する羽目に(-_-;)

てなワケで
表記についてが長くなったが
以下は本題の「QUO VADIS」の意味について

『新約聖書』では「ヨハネの福音書」13-36の
【最後の晩餐】のすぐ後の場面での
シモン(別名ペテロ)の科白に出てくる

Domine, Quo vadis?

Domine:主よ(とゆー呼びかけ)
Quo vadis?:いずこへ?
主と呼ばれたイエス・キリストの行く手には
磔刑に処される運命が待ち受けてるので
最終的な行き先は処刑場だ

しかしイエスはこれに答えず
シモンに以下のような暗示的な予言をする

鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしをしらないと言います。

シモンは予言通りに
イエスを知らナイと3度言い
イエスは十字架に架けられたが
シモンは免れたのだった

以降、シモンはペテロを名乗るが
その後、ローマにおいて
ぺテロ自身の身の上が危うくなり
こっそりローマを出ようとした時の話が
『新約聖書外典』の「ペテロ行伝」35にある

逃げ出そうとしてるまさにその時
イエス(の幻影)が現れて
ペテロが同じ科白でイエスに問うのだ

Domine, Quo vadis?

イエスはローマに戻って
十字架に架けられようとしてたので
「今度こそ自身が十字架に架けられよう!」
そんな決意をしたペテロは
ローマに戻って磔刑に処された

しかも主と同じでは畏れ多いとして
わざわざさかさまになって
十字架に架けられたが
シェンキェヴィチの小説に出てくるのは
後の方の問いかけのシーンだ

それにしても「ペテロ行伝」が
『新約聖書』の正典から排除されたのは
正典とするのに相応しくなかったからだろうが
その基準は曖昧模糊としてる

ユダヤ教とキリスト教では
正典に入れてるモノが同じではなくて
そんな事情からも明らかなように
正典か外典かの差と信憑性は無関係だ

ぶっちゃけ、どちらも信憑性に欠けるが
外典にも興味深い挿話は満載で
芸術作品の主題になってるモノも多い

と、この辺りでそろそろ
『クォ・ヴァディス』のあらすじを
映画版に沿って紹介しておく

青年貴族マーカス・ヴィニシウスのいた軍隊が
凱旋帰国したが
そのまますぐに帰宅できなかったのは
ネロが戦勝記念の祝典を行うまで
足止めを食らったからだった

その間にヴィニシウスは
アウルス将軍の館で世話になるが
この館で運命の美(少)女リジアと出会う

リジアとはローマに滅ぼされた蛮族の国名で
ローマにしてみたら蛮族抑止のための討伐なれど
勝手に蛮族呼ばわりされて滅ぼされた方からすると
ローマに略奪されたとしか言いようがナイが
その討伐なり略奪なりの際に孤児になった娘が
亡き祖国の名を名乗ってた

それもそのはずで
リジアはただの戦災孤児でなく
その国の王女だったらしく
忠実な下僕の巨人ウルススも
共にアウルス将軍の家に身を寄せてた

本来なら元の身分に関係なく
侵略されてローマ帝国の一部となったら
その国の民は王女であれ
ローマ人の奴隷となるのが常だろうが
リジアはアウルス将軍夫妻に
本トの娘のように大切に育てられてた

これはキリストの教えの高潔さが
この物語の主題でもあるので
キリスト教徒のアウルス夫妻が
慈悲心に優れてると示したかったのだろう

映画ではヴィニシウスとリジアの
ロマンス仕立てにもなってるが
基本的にはヴィニシウスの改悛の物語であり
キリスト教徒が大嫌いなネロを
ローマの大火の犯人に仕立て上げて
極悪非道のレッテルを貼るのが
目的なのではなかろうか?!

著者のシェンキェヴィチはポーランド人で
もちろんキリスト教徒だろうが
それ以上に祖国の独立を望んでて
圧政に対しての正しき者たちの抵抗を
描きたかったのだろうし
そこでわかりやすいように
ネロの時代を脚色したのだろう

でもローマの大火はネロの仕業ではなく
キリスト教信者はネロ以外の皇帝も
厳しく取り締まってたのだ

ちなみに「ペテロ行伝」の最後には
ネロがペテロの処刑には関わってなかった事実と
その後キリスト教信者の迫害から
手を引いたコトがちゃんと述べられてる

またリジアなる国は
実はポーランドのコトで
故国を失った王女リジアは
シェンキェヴィチ自身を投影してるるる~

ELEGANTIAE ARBITER【趣味の審判者】

『クォ・ヴァディス』の著者
ヘンリク・シェンキェヴィチは
ポーランド人初のノーベル賞受賞者だ

だがしかし
彼がノーベル文学賞を受賞したのは1905年で
その時、ポーランドは完全に消滅してて
帝政ロシアの一部となってた

シェンキェヴィチが生まれた時には
まだポーランド(立憲)王国と称されてたが
実態は国王を既に帝政ロシアの皇帝が兼任してて
ポーランド人による国家ではなかったのだ

ポーランド独立を願いつつ
残念ながら独立前に死去してしまうが
そんなシェンキェヴィチの
『クォ・ヴァディス』以外の作品は
愛国者の果敢な闘いを題材にした小説が多い

まあ『クォ・ヴァディス』にしても
迫害を受けるキリスト教徒が
信仰や信念を曲げずに
死を選ぶ姿が克明に描かれており
やはり不屈の精神で抗う民衆がテーマだ

実在した登場人物が出てくる中でも
とりわけネロの側近のペトロニウスが
活き活きと描写されてるのが魅力的だが
いったいどこまでが史実で
どこからが創作なのか
その典拠を確認してみたくなった

まず児童版『クォ・バディス』の巻末に
「解説」として次のようにあった

スエトニウスという歴史家が書いたローマ時代の本を参考にして、1896年、この世界的な傑作、「クォ・バディス」を書きあげたのでした

これをずっと信じてて
いざ、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』を
上下巻とも購入して読んでみるも・・・

確かに『ローマ皇帝伝(下)』では
ネロのプロフィールは詳述されてたが
ペトロニウスについては
その名がただの1度も出てこず・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とゆーコトはシェンキェヴィチは
ネロについてはこの本も参考にしただろうが
ペトロニウスの特異な人物像などは
別の書物を参照してるはずだ

自分の知る限りでは
タキトゥスの『年代記(下)』において
3ページ弱で綴られてるのみが
ペトロニウスの全貌だ

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

そう言えば、Slaughterの曲には
まさにそんなペトロニウス節があった

Up all night, sleep all day, that’s right♪

これは簡潔に表現すれば
「不良」だったってコトだろうが
社会的地位が高くして「不良」てのは
潔くて゚+.(・∀・)゚+.゚イイね!

尤もネロなんかは
皇帝にしてアナーキストだから
尚更カッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだがw

なんせいくらローマが退廃してたとはいえ
当時のローマ市民の日常生活は
現代人には考えが及ばナイ健全さで
日の出と共に起きて
陽が沈んだら寝るしかなかったのは
当たり前ながら夜は真っ暗だったからだ

電気がなければ
蝋燭の灯りだけが頼りなので
そんな時代に夜を愉しむのだから
灯りの設備に無駄に金をかけて
贅を尽くしてたのだ

ペトロニウスは不道徳な金持ちだったが
彼が自腹を切るようなコトは稀で
その不道徳の限りを一身に享受するネロが
国庫から無尽蔵に浪費してたと思われ

そうして金に糸目を付けなかったからこそ
一切の道徳観念を無視して
愉しみに耽溺できたのだろう

でも実のトコロ
かつてのネロを指導した哲学者セネカこそが
破格の金持ちだったり・・・。(゚д゚lll)ギャボ

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

これこそがペトロニウスの真価で
無精とか無頓着とかは
鵜呑みにすると全く的を得なくなるが
ペトロニウスは何に対してもそうだったのでなく
興味の範疇以外がそうだったのだ

天真爛漫と見受けられたのは
嫣然としてたからだろう
いや、「嫣然(えんぜん)」てのは
通常は美女の微笑を表現するのに使う言葉だが
ペトロニウス程の粋人(すいじん)には
むしろ似つかわしいかもだ

ああそう、粋人の意味を説明するくらい
無粋なコトもなかろうが
読んで字の如くで粋な人であり
単なるインテリでなく
それを踏まえて遊び心がある人だ

教養があっても
それを万人にひけらかすコトなく
わかる相手にだけ仄めかし
わかった同士だけが納得するのだね

その点、セネカは洒落もわかる教養人だが
ペトロニウスと比すれば
まだしも生真面目だったので
ネロの放縦を横目に見過ごしつつも
内心は気を揉んでただろうが
そんなセネカに対しても
ペトロニウスは臆するコトなく
嫣然とやり過ごしてたのを傍から見れば
なるほど、天真爛漫に映ったはず

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

タキトゥスはペトロニウスを
「贅沢の通人」と表現してるが
資産を食い潰してる文字通りの大食漢や
無目的に放蕩三昧の能無しとは違って
世間から反感を買ったりしなかった
などと言及した上で
ペトロニウスのそれまでの職歴を示し
出世街道を着実に歩んできてるのを
その証拠としてる

つまりタキトゥスに言わせれば
ペトロニウスは「不良」のように振舞っても
本来は役職に就いてた人間なので
背徳者を装ってるだけで
ネロを誑かそうとしてたのだと・・・

恐らくタキトゥス自身は
【趣味の審判者】の意義がわかるほど
歓楽的に生きてなかっただろうし
洒落を解せなかったかもだ

ペトロニウスの教養は
単なるインテリ趣味に非ず
完璧に洒落のめしてて
素地があるくらいではついて行けなくて
だからネロが彼に夢中になったのは
裏を返せば、それがわかったからなのだ!

くだらナイお追従に
うんざりしてたであろうネロには
多少辛辣でも刺激的な方が
新鮮で愉しめたのだな

イベントは基本的には
金をかければより一層おもしろくなる

どんなつまらナイ企画でも
金をかけられるだけかけたら
たちどころに愉快になるのは間違いなく
それは現代においても変わらナイ事実であって
金を湯水のように使いながら
ひたすらバカ騒ぎするなんてのは
誰もが人生に1度は試みたいと思うものだ

ところがそんな誰もが夢見るイベントも
毎晩やってると飽きてくるモノで
日に日に面白みは減退してく

生涯に1回きりでなく
日々イベントをやり続けるには
金の力より企画力が必要で
そこでペトロニウスのプロデュース力が
ネロの魂に火を点けたのだ!

まあ実質的にはネロさえ飽きなければ
それで゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだが
皇帝であるネロに詩の朗読や竪琴演奏をさせて
時に辛辣に批評したりして
その際のネロの反応を
周囲の人間も十分に楽しんでたのでは?

ネロが演じてる最中に居眠りした者がいて
これを咎めようとしたのを
ペトロニウスが救った有名なエピソードが
岩波文庫の『クォ・ワディス』上巻に出てくるが
ペトロニウスはすかさず
ネロをかのオルフェウスに譬え
彼の竪琴の音色で野獣が眠ったと・・・

そんな風に褒められてしまって
ネロは怒っていられなくなったのだが
これってネロがギリシア通で
オルフェウスをリスペクトしてたから
成立したんだと思うと
自分にはやはりネロが愛おしく感じられるし
ペトロニウスの大岡裁きみたいなやり口は
カッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイと感心する

ちなみに居眠りをした不届き者は
後に皇帝となるウェスパシアヌスだった

映画『クォ・ヴァディス』のユーニス

ポーランド人の作家シェンキェヴィチの
歴史長編小説『クォ・ヴァディス』は
1951年に映画化された

ハリウッド映画なので
登場人物の名は英語読みされてて
ペトロニウスの愛人となる奴隷女の名は
Euniceでユーニスだった

偕成社世界少女文学全集の『クォ・バディス』や
岩波文庫『クオ・ワディス』での
エウニケの呼び名の方が自分的にはしっくりくるが
以下は映画についてなので
ユーニスで統一する

このユーニスを演じてたのは
Marina Bertiなる女優で
画像のように圧倒的な美貌の正統派の美人

地中海を越えて
ローマに連行されて(と、自ら語ってるが)
折りしもペトロニウスに仕えるコトになったのだが
そんな境涯の不遇は全く気にかけておらず
むしろ愛しい主人の傍に仕えて
幸せを噛み締めてるような女である

なんせ主人のペトロニウスにメロメロでも
奴隷が主人に告白をするなんて
身分が違い過ぎて到底できなかったので
ユーニスにとって唯一の不幸は
想いを秘めねばならナイコトだった!

ところがある日
ペトロニウスの甥の元にやられそうになり
それを激しく拒絶するるる~

どんな罰を受けても構いません、どうか、おそばに!!

ユーニスを貰い受けるはずだった男こそが
主人公のヴィシニウスなのだが
元より彼には別に貰い受けたい女がいたのもあり
ペトロニウスはユーニスを手放すのを諦め
主人に逆らったコトに対して
ユーニスにムチ打ち5回の罰を与えるも・・・

ペトロニウス「ムチ打ち5回だ」
ユーニス「ここにいても?」
ペトロニウス「行い次第だ」
ユーニス「ありがとうございます」

どんな罰を受けても
愛するペトロニウスの元を離れたくナイp(-_-+)q

そうしてユーニスは
したたかムチ打たれた後で
秘かに主人の胸像にキスをしながら
さも愛しそうにささやく

愛しいご主人様、お慕いしてます、お伝えできたらいいのに・・・

美女がうっとりとした表情でつく溜息の
なんたる甘やかさ・・・ホゥ(*-∀-)
そんなユーニスを作品にしたミュシャは天才だ!

そしてまたある日
ついに告白するチャンスが訪れた

ユーニス「老婆の予言の詩があるんです」
ペトロニウス「どんな?」
ユーニス「すみれ色のローマの海に/ヴィーナスが現れて/恋人たちを結び付ける/彼女の腕で永遠に」

ペトロニウスはこの時まで
ユーニスの気持ちには全く気付かず
使用人の誰彼と相手の名を挙げるのだが
ユーニスは総てにうなだれながら首を振り続け
最後に主人をまっすぐに見据えてこう言う

He’s my lord.

一瞬硬直したペトロニウスだったが
ユーニスほどの美女に言い寄られては
拒絶できるワケもなく

すみれ色の海へ私が誘ったらどうなる?

なんて返しができるトコロが
いかにも洒落モノらしいw

そんなペトロニウスに対して
逆にユーニスは全く捻りがなくて
えくぼまで作って顔を輝かせながら
小犬のように足下にすがり

嬉しくって気絶します!

しかしどうするかを問いかけただけで
まだ誘われたワケではナイのだ
と気付いた瞬間にしゅんとしてしまう

あとはお誘いだけ・・・

てか、この一言こそが誘いでなくて何なのだ?!
そして男の方からがっつり誘わなくてどうするのだ!!

ペトロニウス「それではアンティオキアへ」
ユーニス「ポカ~ン(゚ o ゚*)」
ペトロニウス「気絶しないのかね?」
ユーニス「支度をします、今すぐに(^▽^*)」

愛するコトしかできナイ女が
愛されるコトで幸せの絶頂へ・・・
だが、幸せな日々は続かなかった。・゚・(ノД`)・゚・。

ペトロニウスには死を予見してた

ユーニスが奏でる竪琴にも死の影を感じ
遂にネロに自殺を命令され
友人を呼んで最期の晩餐の場で
自殺を宣言し決行

ユーニスは何の迷いもなく一緒に果てた
寄り添って眠るように死んでる2人が
なぜか幸せそうに見えた

こんな美しい女に命懸けで愛される男は
そりゃあ幸せだったろう